約1200年前、長岡京から平安京へと都を遷す際に発布された桓武天皇の詔(みことのり※)で、「山川も麗しく」と称された地に京の都は築かれました。そして京都は、周囲の山や緑と関わり合いながら発展していきます。
豊かに雨水を貯え、ろかする森林。生活に必要な資材や燃料を供給しながら集落と一体となって文化を育んだ里山。信仰の対象や葬送地となって多様な宗教文化が生まれた山とその麓。貴族の別荘地などとなり雅な歴史を今に伝える山村。人々の日常に溶け込んで安らぎを与えてきた「京都三山」や市街地の寺社境内林など。
あらゆる面で京都の文化や暮らしと関わり、千年の都・京都の生命力の源となった山と緑。
そこに息づくストーリーを"発見"すれば、京都の歩んだ悠久の歴史を自ずと感じることができます。
(※)天皇の命を記した文書
広さ約300平方キロメートルある京都盆地は、北・東・西の三方が山に囲まれています。平安京遷都に際し、当時の国名「山背国(やましろのくに)」を「山城国(やましろのくに)」と改める時に発せられた詔(みことのり)には「此の国 山河襟帯(さんがきんたい) 自然に城を作す この形勝によりて新号を制すべし」と記されました。京都を囲む山々は、新都を定める重要な要素だったといえます。夏は暑く、冬は底冷えする気候も、寒暖差が大きいことで紅葉の名所や良質な野菜の産地となったことも、山に囲まれた地形だからこそ。こうして京都の歴史や生活に影響を与えてきた北、東、西の「京都三山」。まずは、それぞれに含まれる代表的な山の歴史・文化を見ていきましょう。
京都市と滋賀県大津市にまたがる「比叡山」。平安京の鬼門を守る霊山として崇敬を集めてきました。その姿は、まちのシンボルといえる雄大さを称えています。岩倉の圓通寺(えんつうじ)や西賀茂の正伝寺(しょうでんじ)の庭園では借景(※)になっています。
※遠くの景色を庭園の一部として活用する技法
東山三十六峰のひとつ「如意ヶ嶽(にょいがたけ)」の西峰にあたる「大文字山」は、8月の五山送り火で大の字に火が灯される山。登山を日常的に楽しむ人も多く、送り火の火床がある場所からは西と北の山々も見渡せます。
※遠くの景色を庭園の一部として活用する技法
北の比叡山から南の稲荷山に至る南北約12キロ間の山々を東山三十六峰と呼びます。山の連なる風景は「ふとん着て寝たる姿や東山」と江戸時代の俳人・服部嵐雪に詠まれました。
東山三十六峰を構成する山々(※):
比叡山・御生山・赤山・修学院山・葉山・一乗寺山・茶山・瓜生山・北白川山・月待山・如意ヶ嶽・吉田山・紫雲山・善気山・椿ヶ峰・若王子山・南禅寺山・大日山・神明山・粟田山・華頂山・円山・長楽寺山・双林寺山・東大谷山・高台寺山・霊鷲山・鳥辺山・清水山・清閑寺山・阿弥陀ヶ峰・今熊野山・泉山・恵日山・光明峰・稲荷山
※諸説あります
東山三十六峰の最南端に位置する「稲荷山」は、伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)の御祭神が降臨した地。一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰と呼ばれる3つの峰が連なり、崇敬者によって数多くのお塚(※)や朱色の鳥居が奉納されています。これらを参拝して巡ることを「お山する」といい、山中では人々の篤い信仰心とともに悠久の歴史を感じることができます。
※御祭神に別名をつけて信仰する人々が石にその名を刻んで稲荷山に奉納したもの
山科盆地の南側に位置する「醍醐山」一帯は、世界遺産(文化遺産)の醍醐寺(だいごじ)境内で、豊かな自然の中に見事なお堂が溶け込んでいます。山麓の「下醍醐(しもだいご)」には、国宝の五重塔や金堂、豊臣秀吉がつくらせたという三宝院(さんぼういん)庭園など。山頂一帯の「上醍醐(かみだいご)」は寺の開創地と知られ、国宝の薬師堂をはじめ文化財のお堂が点在します。
峰定寺(ぶじょうじ)は平安末期に創建され、山全体が山岳信仰の地となった、京都府の歴史的自然環境保全地域。峰定寺の御神木とされる「花背の三本杉」は、1つの根元から3本の幹が伸びるという珍しい樹形の大木。3本中2本が高さ60メートルを超え、うち1本は2017年に日本一背の高い木として林野庁の認定を受けました。
「京都一周トレイル」は、北・東・西の山々にわたって整備された全長約83.3キロのコース、さらには京北地域に整備された全長約48.7キロのコースを指します。各地の歴史や自然を楽しみながら、新しい京都が発見できるトレッキングコースです。ガイドマップは市内の一部の書店や観光案内所などで販売。
「鞍馬山」の中腹に建つ鞍馬寺(くらまでら)は、平安京の北方鎮護を担いました。貴船方面へと続く奥の院参道には、根が地表に露出した「木の根道」があり、牛若丸の修行地とも伝わります。若狭・丹波方面から都へ続く門前の鞍馬街道は、薪炭の集積地として栄えました。街道沿いの「瀧澤家住宅(たきざわけじゅうたく)」は炭問屋と伝わる京町家です。
「貴船山」の地質は古生層からなり、付近から産出される貴船石は庭石として有名です。水の神様を祀る貴船神社(きふねじんじゃ)が創建され、貴船山から絶えず湧き出るという御神水や御神木の桂の木、樹齢約千年の大杉など、山が育む壮大な自然の力が身近に感じられます。
右京区の嵯峨と京北地域の境にそびえる「愛宕山」。山頂に位置する愛宕神社(あたごじんじゃ)は、平安京北西鎮護の神として信仰を集めました。古くは修験道の道場となり、火伏せの御利益で知られる愛宕信仰は、修験者たちによって広まります。現代でも京の人々の暮らしに根付く信仰です。
「稲荷詣でに愛宕詣で」とは、雲が南(稲荷山/伏見稲荷大社)に流れると天気は晴れ、西(愛宕山/愛宕神社)に流れると雨になるという、京都の風土を捉えたことわざです。
風光明媚な嵯峨嵐山にあり、歌枕としても有名な「小倉山」。山麓には歴史ある神社や寺が点在するほか、かつては平安貴族の別荘地であったことや、葬送地・化野(あだしの)があったことでも知られています。周辺の山々も含んだ「小倉山」一帯のなだらかな山並みは、周辺の集落や田畑とともに、のどかな野の風景を形成しています。
洛西の総氏神・松尾大社(まつおたいしゃ)の本殿背後にそびえる「松尾山」。山頂付近には、神社創建前から山霊の依代(よりしろ)として崇められていた磐座(いわくら※)があります。この磐座の神霊を遷し、大宝元年(701)松尾大社の社殿を造営。「松尾山」を水源とした「霊亀の滝」や湧水「亀の井」は、社殿の裏手付近で拝観できます。
※神様が降臨する岩
山頂に淳和(じゅんな)天皇陵がある京都府歴史的自然環境保全地域。山の中腹に位置する金蔵寺(こんぞうじ)は、桓武天皇が王城鎮護のため東西南北にひとつずつ設けた「岩倉」のひとつとされています。こうした歴史背景を持つことから、古くより周辺の環境は保護されてきました。山麓には田畑が広がる大原野地域。タケノコの産地としても知られています。
京都の人々が日常的に親しんでいる身近な場所に、
京の歴史を色濃く教えてくれる
山と緑の風景が息づいています。
東の「吉田山」、北の「船岡山」、西の「双ヶ丘」は、いずれも標高100メートルほどの丘陵。その周囲には神社仏閣や学校、住宅が建ち並び、気軽に登山できることも相まって、地元の人々に親しまれてきました。じつはその山々が、平安京の造営に関係しているといわれています。
まず、平安京造営前に行われた地相の占いでは、四神相応の考え方(※1)にならい、北の「船岡山」が玄武に相当すると考えられました。また、平安京の中央を南北に走るメインストリート・朱雀大路の延長線上にあることから、「船岡山」は平安京の中軸線を決める基点になったと考えられています。「吉田山」と「双ヶ丘」を結ぶラインも、大極殿(※2)の位置を決める基準になったのではないかといわれます。平安京遷都の詔に記された「三山が鎮をなす」の「三山」は、この3つの山「平安京三山」を指すという説が唱えられています。
※1中国から伝わった風水の考えで、東は鴨川(青龍)、西は山陰道(白虎)、南は巨椋池(朱雀)と考えられた
※2平安宮の正殿
平安京の守り神として吉田神社(よしだじんじゃ)を擁する山。神が集いし岡を意味して「神楽岡(かぐらおか)」と称されました。古くは天皇の遊猟地。皇族の墓も複数建てられています。連峰から離れていますが東山三十六峰のひとつ。
清少納言が「枕草子」で称賛した丘陵。平安貴族の遊楽地である一方、室町期の応仁の乱では西軍の拠点となり、明治期には織田信長を祀る建勲神社(けんくんじんじゃ)が創建されました。西麓には葬送地の歴史を持つ蓮台野が広がります。
一の丘、二の丘、三の丘という3つの丘からなる丘陵。かつて一帯は天皇の遊猟地であり、貴族の山荘も営まれました。山上・山腹には24基の古墳が分布しており、丘周辺には仁和寺(にんなじ)、妙心寺(みょうしんじ)、法金剛院(ほうこんごういん)などが建ち並びます。
賀茂川と高野川の合流地点にあり、世界遺産(文化遺産)下鴨神社(しもがもじんじゃ)の境内にあたる「糺の森」。古来の植生を留め、和歌や古書にも登場。平安時代の祭祀遺構も発掘されているように、古くから神聖な場所とされてきました。
渡月橋の西側に位置する桜や紅葉の名所で、かつては平安貴族の別荘地帯。「嵐山」の名称は渡月橋を中心とするその付近の地名でもあり、今も昔も京都を代表する名勝地です。山腹には法輪寺(ほうりんじ)や岩田山自然遊園地があります。
京の中心地から離れた山里の人々は、豊かな自然と共生しつつ、
都とも深く関わり合いながら暮らしを育みました。
京の山里には、雅な歴史が伝わります。
「京北」の山国地域を中心とした桂川流域は、禁裏御料地として御所造営時の木材を供給するなど都とのつながりが深い地域。古くより山が手入れされてきたことによって豊かな水が守られ、「水源の森百選」のひとつ「武地谷(たけちだに)水源の森」が育まれました。歴代天皇の帰依を受けた常照皇寺には御所より株分けされた「左近の桜」も植樹されています。
愛宕山麓に位置し、「越畑(こしはた)」と「樒原(しきみがはら)」の2地区からなる「宕陰」には、約800枚の棚田が広がる美しい日本の原風景が残ります。平安時代には集落が成立し、愛宕山への参詣道が通る山里として発展。都人(みやこびと)が移住するなど、都人とも関わり合って暮らしを育みました。
宕陰の南に位置し、同じく愛宕山麓に広がる「水尾」はゆずの産地としても有名な地域。平安時代、水尾天皇とも呼ばれた清和天皇とゆかりある山里です。
川端康成の小説「古都」の舞台。古くは寺院の領地として木材や薪炭を生産し納めていました。北山丸太を生産・加工する北山林業の中心地であり、北山杉の育成方法や加工技術なども開発。高品質の磨丸太(みがきまるた)は全国的に名高く、桂離宮(かつらりきゅう)や修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)の茶室の建材にも使われています。
中川の北西部に位置する「小野郷」。かつては朝廷の領地として木材や炭、松明などを納めていました。イチョウが有名な岩戸落葉神社(いわとおちばじんじゃ)は、源氏物語の登場人物・夕霧が恋した落葉の宮を祀ります。
賀茂川の上流である雲ケ畑川(別名小野川)に沿って開けた出谷・中畑・中津川地域を雲ケ畑と呼びます。北にそびえる桟敷ヶ嶽(さじきがたけ)から発する雲ケ畑川は、江戸時代、朝廷の御用川として鮎を献上していたことが記録に見えます。桟敷ヶ嶽の西南にある岩屋山には巨岩や洞窟が多くあるため、山腹の志明院(しみょういん)を中心に修験道の行場となっていました。8月24日の晩に出谷と中畑の2箇所で行われる「雲ケ畑松上げ」は、五山送り火のように火文字を山腹に浮き上がらせるものですが、毎年変わる字は当日まで秘密という点が独特です。
北の山々や比叡山に囲まれた山間盆地。名産品の柴漬けの材料である赤しその畑など、のどかな田畑が広がる山里です。鎌倉時代~昭和初期頃は、「大原女(おおはらめ)」と呼ばれる女性たちが炭や薪を京の都で売り歩きました。大原女の独特な装束は、時代祭や大原女まつりで見られます。
大原から市内中心部へ向かう際に通りかかる比叡山の山麓地域。飛鳥時代に起きた「壬申の乱」で背中に矢傷を負った大海人皇子の伝承が残り、その故事が地名の由来といわれます。
動物、植物、地質鉱物から選ばれる天然記念物。京都市内でも様々な天然記念物が山と緑の中で育まれてきました。その一部をご紹介しましょう。
市街地と近い場所にありながら、氷河期からの水生生物が生息する希少な池。川の流入がなく雨水や湧水由来の池であるため、周囲の森林保全も重要です。池の清掃や外来生物除去などは地域のボランティア活動により支えられています。
西日本と中国だけにしか生息しない世界最大の両生類。3000万年前の地層から発見された化石種とほぼ同じ形態をしているため生きた化石と呼ばれています。大きな体とユーモラスな表情で人気の高い生き物です。近年、中国種との交雑問題が明らかになり、保護のための調査が行われています。
疏水分線沿いの「哲学の道」では、観光地でありながらゲンジボタルを見ることができます。
ホタルの幼虫のエサとなる貝(カワニナ)が生息できる環境が保たれ、道路からの排水の流入を防ぐなど、疏水の水質管理がホタルの生息できる環境をつくっています。
境内にある御影堂前のイチョウ。樹齢330年以上といわれ、扇のように枝が伸びるイチョウは珍しく、木の根にも見えることから「逆さ銀杏」と呼ばれます。寺が火災にあった際、水を噴き出し消火したという伝承から「水吹き銀杏」とも呼ばれます。