浦賀にペリーが来航し、動乱の幕末を迎えた日本。その中心舞台となった京都では、15代将軍・徳川慶喜が二条城で大政奉還の意を表明し、朝廷に政権を返上。明治政府が樹立し事実上の東京遷都が行われると、京都の人口は著しく減少し経済も衰退。京都は新時代の到来とともに、「いずれ狐や狸の棲家になる」といわれるほど衰弱しました。しかし、この状況をただ嘆いたのではありません。低迷の時代から脱却し元気な京都を取り戻そうと、市民一丸となって様々な近代化事業に着手。京都の未来をみつめた復興への取組は、現代の京都を築く礎ともなりました。いったいどんな近代化を目指したのか…明治時代の軌跡をたどれば、当時のまちづくりの心や特質が"発見"できます。そしてそれは、今と未来の京都を考えるヒントにもなるでしょう。
改革は人づくりから
明治の教育京都の近代化事業を進めるにあたり、まず重視されたのが人材育成でした。
その想いは様々な教育機関を生み出し、現代へと引き継がれています。
明治2年、国の法令に先駆けて、全国初となる学区制の小学校64校が京都に開校しました。住民の自治組織である「番組」ごとに開校したため、番組小学校と呼ばれています。建設費と運営資金の多くは番組内の町人が出資し、地域ぐるみで未来を担う子どもたちの教育に力を注ぎました。番組小学校は、公民館や役所、消防署などとしても活用された、住民の生活に欠かせない地域の重要な施設でした。
番組小学校にまつわる資料や昔の教材、卒業生や地域住民が学校に寄贈した美術工芸品などを収集・展示しています。閉校した開智小学校の建物を活用し、正門と車寄せは明治期の建築物です。
明治時代、人材育成や文化継承・発展といった理念のもと、多くの人の尽力によって様々な分野の教育機関が開設され、文化・産業の発展に貢献しました。現在市内には、明治期から歴史を重ねる学校を含め、38の大学・短期大学が集積(平成30年4月時点)。京都市で学ぶ学生数は人口の約1割に相当し、全国の大都市で最も高い割合となっており、京都をフィールドに学ぶ学生の力は、まち全体の活性化にもつながっています。明治期の教育振興は、現代における「大学のまち京都・学生のまち京都」を生み出す土台になったといえるでしょう。
明治時代に開校(移転)した主な学校
日本初の大学コンソーシアム(大学連携組織)として設立(48大学・短期大学が加盟)。学生が他大学の授業を受けることができる「単位互換制度」や社会人を対象とした生涯学習講座「京(みやこ)カレッジ」など、全国に先駆けた取組を数多く実施しています。
学生の力で京都を盛り上げようと、平安神宮前・岡崎プロムナード一帯で繰り広げられる「大学のまち京都・学生のまち京都」を象徴するお祭りです。1500人を超える学生により企画・運営されており、平成30年度で16回目を迎えます。
経済を立て直す
産業復興への挑戦学校教育の充実だけでなく、農業・工業・商業や伝統産業の近代化を目指して
工場や試験場をつくり、最先端の知識を学び取り入れる環境を整えました。
明治3年に開設された理化学研究施設・舎密局。ビールや石けん、伝統産業品などの改良や製造研究を行うほか、理化学教育の場としても多くの技術者を養成しました。教授として招かれたドイツのワグネル博士は、陶磁器や七宝などの伝統産業に多大な影響を残しました。彼に師事した島津源蔵は、島津製作所を創業。医療用X線装置の開発や教育用化学機器の製作など産業の発展に大きく貢献しました。
京都の伝統的な主力産業であった西陣織も、江戸時代の戦火や災害、明治の遷都などにより経営状況は低迷。しかし、古来より外来技術を取り入れ発展した西陣織。明治の職人たちも、産業改革に積極的に取り組みます。まず府による保護政策のもと、明治2年に西陣物産会社を設立。明治5年に佐倉常七・井上伊兵衛・吉田忠七、翌年に四世・伊達弥助などが海外へ赴き、ジャカード(紋紙を使う織機)をはじめとした最新機器と技術を日本に持ち帰ります。こうした技術の定着は、生産効率と品質を向上させ、さらに各地の博覧会への出品による販路開拓などにより、幕末維新の不振から抜け出すことに成功。先人の挑戦を礎に今日の西陣織があるといえます。
日本における映画の産業・文化は、京都からはじまりました。まず、実業家・稲畑勝太郎がフランスのシネマトグラフを輸入し、明治30年に京都電燈(元・立誠小学校の地)で試写実験を成功させます。明治41年には、西陣の芝居小屋・千本座の経営者で狂言方としても活躍していた牧野省三が、真如堂(真正極楽寺)で劇映画「本能寺合戦」を撮影。これまで記録映画や簡易な寸劇作品はあったものの、本格的な劇映画の撮影は日本初のことであり、これが「時代劇」の歴史の幕開けともなりました。
きらびやかに幕開け
伝統芸能花街・祇園甲部で行われる舞踊会「都をどり」は、産業復興施策のひとつ「京都博覧会」からはじまりました。それは明治5年開催の「第1回京都博覧会」(西本願寺・建仁寺・知恩院が会場)。当時、ヨーロッパの博覧会では余興があったことから、娯楽性のある舞踊公演を企画。今までにない趣向の演出は、国内外の観客の好評を得て、今のように定期公演されるきっかけとなりました。
新製品のお披露目や販路の開拓など、産業の振興と発展を目的に様々な品を一堂に展示・公開する博覧会。諸外国の博覧会にならい、京都府は日本初となる博覧会を明治4年に西本願寺で開きます。これを機に府と民間で京都博覧会社を創設。そして「第1回京都博覧会」を開き、昭和初期まで続く恒例行事となりました。この実績は、明治28年、政府主催「第4回内国勧業博覧会」誘致の成功にもつながります。
まちなかに残る明治
まちづくり・建築豊臣秀吉が市中の大改造で現在の寺町通に集めた数多くの寺や神社。その結果、多くの参拝客がこの地を訪れ、境内には寄席や芝居小屋、茶店などが並びにぎわいました。しかし、大政奉還で明治天皇が東京へ行き、市民は落胆。そこで当時の京都府参事・槇村正直は、活気を取り戻すために繁華街を整備しようと、三条通から四条通まで神社仏閣の境内を貫く新京極通をつくりました。明治30年代には東京の浅草、大阪の千日前とともに「日本の3大盛り場」と呼ばれました。
新京極商店街は浅草に次いで日本で2番目に古い商店街。元々、参拝者でにぎわっていた誓願寺と金蓮寺の境内を上知(官が没収する)してつなぐという大計画のもと建設されました。現在、新京極と寺町通の間を結ぶ細い路地がいくつかあるんですが、当時、寺町通の東側を中川という川が流れていたんです。この細い道は、寺町通側から神社仏閣へ川を渡って入る参道の名残なんですよ。
明治5年に新京極が開通してから数年は、各地から大道芸人や見世物を集めるなど、通りの活性化に努めたそうです。娯楽のない当時において芝居小屋、見世物小屋が集まる新京極は、目新しいアミューズメントストリートでした。時代の流れとともに、映画のまち、修学旅行のまちとその顔を変えながら、庶民的で親しまれる多種多様な商店街へと変化しています。
こういった新京極の歴史は古くから語り継がれています。5年後の新京極創設150周年に向けては、記念誌の発行準備も進めているんですよ。
堀川の中立売通に架かり、市が管理する橋の中では最古。後水尾天皇の二条城行幸を描いた「洛中洛外図屏風」には、天皇の御輿が橋を渡る様子が描かれ、江戸時代には二条城と御所を結ぶ公儀橋(幕府が直轄管理)として重視されました。石造りのアーチ橋になったのは明治6年。橋の名は「堀川の橋で第一番目に永久橋に架け替えられた」という意味が込められています。
明治時代に行われた京都市三大事業のひとつ「道路拡築及び電気軌道(市電)敷設」による七条通の拡幅に伴い、明治44年に着工し大正2年に完成した鉄筋コンクリート造のアーチ橋です。鴨川に架かる橋の中で明治期の意匠を残す唯一の橋として、平成20年に土木学会選奨土木遺産に認定され、平成31年には、国登録有形文化財に登録されました。昭和62年に「三十三間堂の通し矢」をイメージした矢車模様の高欄に改修され現在に至っています。
御所や旧公家の屋敷が一部残り、四季折々の自然が美しい憩いの国民公園。明治以前この一帯は、公家や宮家の邸宅が建ち並ぶ公家町でしたが、天皇の東京遷幸にともなって公家の多くも東京へ移住。住人のいなくなった御所の周囲は、荒れ果ててしまいます。明治10年、京都を訪れた明治天皇はその惨状を目にし、京都府に京都御所一帯の保存・維持を指示。そうして現在のような姿へと整備・管理されるようになりました。
※明治期に誕生した公園は円山公園(明治19年)や岡崎公園(明治37年)もあります
大日本武徳会により演武場として造営。明治時代における木造建築、さらには武道の歴史に関する施設としての歴史的な評価もなされています。平成8年に国の重要文化財に指定。
日本銀行本店の設計を担当した辰野金吾とその弟子・長野宇平治により建築されました。外観は赤レンガに白い花崗岩を帯状に用い、内部は中央部に吹き抜けの営業室と客溜りを設けています。昭和44年に国の重要文化財に指定。
近代地方自治の歩み
京都市政と市会市民を代表する人々が、より良いまちづくりのために話し合う市会(二元代表制)。
このような自治体としての京都市の歩みは、明治時代にはじまりました。
明治4年、政府は全国に「府県」を置く「廃藩置県」を行い、知事を各地に派遣し、中央集権体制を強化しました。一方、京都では、廃藩置県が行われる前の明治元年から「京都府」という名称を使用。そして、「京都府職制」を制定し、府の組織を主に京都の市中を担当する「市政局」とそれ以外を担当する「郡政局」に分けて整え、地方制度のモデルとなりました。明治21年、新しい地方制度として「市制・町村制」を国が公布。しかし、京都は東京・大阪とともに、その国家的重要性から「一般都市と同様の自治権を付与すべきでない」との意見が強く、この3都市には特例が公布された結果、明治22年の市制施行により「京都市」が誕生したものの、京都府知事が京都市長の職務を兼ねることとなりました。そのような中、42名の市会議員を選ぶ選挙が行われ、記念すべき第1回京都市会が明治22年6月14日に開会。当時はまだ議場がなく、寺町四条にあった大雲院(現在は東山へ移転)という寺院で会議を行いました。
3都市は、共同して特例の撤廃運動を起こしました。京都市会は数度にわたり、特例撤廃を求める請願や建議を国に提出。こうした市会を中心とした市民による自治獲得の努力が実を結び、明治31年9月30日に市制特例は廃止されました。翌日からは普通市制が実施され、初代市長には市会による選挙などを経て内貴甚三郎を選出し、府庁から独立した市役所を開庁。これにより、京都市は市長・市会の二元代表制による新たな一歩を踏み出しました。
明治から大正にかけて推進された京都の近代都市化政策を「京都策」と呼び、3つの時代に分けることができます。
槇村正直(第2代知事)、山本覚馬、明石博高などが活躍した時代。舎密局の開設や欧米への使節団派遣など、海外の技術・知識を積極的に取り入れると同時に、近代事業の担い手を育成すべく、教育機関を次々と開校しました。
第3代京都府知事・北垣国道の時代、滋賀県・琵琶湖の水を京都に引き込むという国内では前例のない一大土木事業に着手。疏水の完成は水力発電や新たな水運ルートを生み出し、京都の近代化を大きく躍進させました。
京都百年の計として初代京都市長・内貴甚三郎が発表した都市構想を2代市長・西郷菊次郎(西郷隆盛の息子)が引き継ぎ、明治40年に事業計画を策定、翌年着工、大正3年に全事業完了。これにより、現代に続くインフラを完成させました。
❶第2疏水の開削及び発電事業
❷上水道整備 ※第2疏水を利用し上水道を整備して市内の衛生状態を改善
※第2疏水を利用し上水道を整備して市内の衛生状態を改善
❸道路拡築及び電気軌道(市電)敷設
偉大なる産業遺産
琵琶湖疏水琵琶湖の水を京都へ引き込み産業振興を図るべく「琵琶湖疏水」の建設を決意した第3代京都府知事の北垣国道。当時の日本では、大規模な土木工事を外国人技師に任せてきたことから琵琶湖疏水も当初はオランダ人技師に依頼するも、工事の難しさを指摘されてしまいます。また、前代未聞の大事業に政府や地域住民からも懸念の声が挙がりました。工事計画や資金など多くの問題を解決し着工に至るまで約4年の歳月がかかります。
琵琶湖疏水は、日本人の技術者たちでつくりあげた日本初の国家的土木事業。測量主任に島田道生、工事の主任技師に大学を卒業したばかりの田邉朔郎、ほか約400万の人が工事に携わり、4年8ヶ月の年月をかけて第1疏水を完成させます。最難関といわれた延長2436メートルの第1トンネルは、竪坑(シャフト)方式を日本ではじめて採用し、当時国内最長のトンネルに。明治23年4月の竣工式では、祇園祭の山鉾が並び、大文字も点火されました。
そして明治末。第2疏水建設計画が持ち上がります。第2代市長・西郷菊次郎が推進した「三大事業」のひとつで、明治45年に完成。これら琵琶湖疏水の用途は時代ごとに移り変わりながらも、市民の生活を現在も潤し続けています。
琵琶湖疏水は防火用水や灌漑用水に活用されたほか、水運ルートともなり経済交流を活発にしました。水路の落差を船が行き来できるよう、船を昇降させた傾斜鉄道の遺構が蹴上インクラインです。
日本初!
明治の路面電車琵琶湖疏水がもたらした蹴上発電所での水力発電を動力に、日本ではじめて電気による路面電車の営業がスタート。琵琶湖疏水の主任技師・田邉朔郎とともにアメリカ視察をした京都商工会議所初代会長・高木文平が立案し、京都電気鉄道会社(京電)を設立。はじめて電気鉄道が走ったのは現・京都駅付近〜伏見間で、2ヶ月後には内国勧業博覧会会場への路線が開通となりました。その後、三大事業のひとつとして市が「道路拡築及び電気軌道(市電)敷設」事業に着手。明治45年に開業します。大正に入ってからは市が京電を買収し、昭和の廃線まで京都市営鉄道として運営されました。当時の車両や路面の敷石は市内の各地で保存・活用しています。
生まれ変わった岡崎エリア
第4回 内国勧業博覧会と紀念祭明治4年より博覧会を実施し産業振興を図ってきた京都。明治28年には政府主催の「第4回内国勧業博覧会」が行われました。第3回までは東京で開催されたので東京以外では初開催。明治28年が平安京に都が遷って千百年という節目年であることから「平安遷都千百年紀念祭」との同年開催を計画し、誘致に成功しました。会場に選ばれたのは、近代化のシンボルだった琵琶湖疏水の流れる岡崎エリア。当時は田畑の広がるのどかな地域でした。岡崎の名所「平安神宮」は、この紀念祭の象徴として創建されました。そして毎年10月に開催される時代祭も奉祝行事として催されたことを起源としています。