京都市南部に位置する伏見。昭和初期に伏見市(※)が誕生し、京都市と別の都市だった時代があったように、伏見は、近郊の京都や大阪と深く関わり合いながら、独自の文化や歴史を育んできました。
京都盆地の中でも早くに農耕がはじまり、豊穣を願う稲荷信仰の発祥地となった伏見。平安時代には、貴族の別荘が営まれる景勝地として知られました。秀吉が伏見城を築くと、港町・宿場町・城下町として発展。幕末には戦禍に見舞われますが、明治以降は近代化が進み、古くから継承される酒づくりを中心に、産業のまちとして復興します。
このように、悠久の歴史を歩んできた伏見には、知れば知るほど様々な側面が浮かび上がります。数多くの史跡や風情あるまちなみとともに受け継がれた伝統・文化。そんな伏見の多彩な魅力を"発見"しましょう。
※令和3年は伏見市などが伏見区となって90周年の節目
現代に続くまちの基盤がつくられ、栄えるようになったきっかけは、豊臣秀吉の政策にありました。
天正20年(1592)、洛中の聚楽第と関白の座を甥の秀次に譲った秀吉は、観月の名所である指月の地に隠居所をつくり、その後、城へと改築。あわせて大規模な治水工事や城下町の整備に着手します。そのひとつが、巨椋池に流入する宇治川の付け替えです。現在、巨椋池は干拓され、農地や住宅地として活用されていますが、以前は周辺の河川とつながり合い、伏見、宇治、久御山にまたがる広大な池でした。秀吉は宇治川を巨椋池から切り離し、伏見城の外堀とするとともに水運として整備します。内陸を流れる水路は宇治川派流(濠川)といわれ、伏見城の建築資材の運搬などに利用。さらに宇治川との合流地点には京都への玄関口となる伏見港を整備。大坂と伏見を船が往来し、街道を通じて京都の中心地へとつなぐ交通の要衝として発展しました。
ハスの名所だった巨椋池(昭和初期頃)
提供/宇治市歴史資料館
伏見桃山御殿御城之画図(国立国会図書館蔵を基に作成)明治期に描かれたという木幡山伏見城と城下町の図(方角は図の左が北)。
現在の伏見の市街地は秀吉時代の城下町の都市構造が基盤になりました。※城域は京都市遺跡地図による
江戸時代になると、豪商・角倉了以によって高瀬川が開削され、伏見・京都が一本の水路でつながり、水運は隆盛を極めます。明治期に琵琶湖疏水が建設されると、川端通と冷泉通の交差点付近から伏見区堀詰町に至る鴨川運河が完成し、大津とも結ばれました。このように複数の水路の中継地となった伏見港は、日本最大規模の内陸河川港になります。近代以降は、市電をはじめとする陸上交通が発達。昭和37年(1962)をもって舟運は長い歴史を閉じますが、水辺の景観は歴史的価値を伝えながら地元の人々に親しまれ、保全活動のもと風情あるまちなみが守られています。
大正時代の大洪水をきっかけに建設された三栖閘門。宇治川と濠川との水位差を調整し船を行き来させたほか、治水施設としての役割も果たしました。
まちを歩けば、伏見と各地を結んだ水路・陸路の名残が見つかります。
江戸時代、伏見港には多くの過書船(※)が出入りしました。大坂・伏見間を頻繁に行き来した旅客船は、船に積める米の量にちなんで三十石船と呼ばれます。現在は、毎年3月下旬~12月上旬に十石舟、秋期限定で三十石船が遊覧船として濠川を運航。往時の船旅気分が味わえます。
※幕府公認の通行書を持つ船
復元した三十石船などを置き、伏見港の歴史を感じさせる水辺の公園。運動施設を備えた伏見港公園に、三栖閘門や閘門の模型などを展示した三栖閘門資料館もすぐそば。いずれも「みなとオアシス」の構成施設です。
「みなと」を核としたまちづくりのため、住民参加による地域振興が継続的に行われる施設を国土交通省が登録する制度。令和3年4月30日に伏見港が「川のみなとオアシス 水のまち 京都・伏見」として登録されました。
伏見と京都の往来に活用された陸路。東山区の五条通から伏見につながる一本道で、秀吉が伏見城の築城に合わせて開いたといわれます。街道沿いには神社仏閣も多く、参拝客でもにぎわいました。また、江戸と大坂を結ぶ東海道五十七次(※)のルートの一部だったともいわれます。
※有名な東海道五十三次から山科で分岐して大坂まで続く京街道は、近年、東海道五十七次とも呼ばれます(伏見宿は54宿目)
港や街道が整備されると、一帯は宿場町として栄えます。また、伏見城下には大名屋敷や商業者の京町家が建ち並び、家康の時代には日本初の銀座(銀貨の鋳造所)が置かれるなど、城下町としてもにぎわいました。そうした歴史は、町名や道路網などに面影を残しています。また、濠川近辺は、伏見南浜界わい景観整備地区として美観地区にも指定されています。
明治~昭和に活躍した京都の市電。複数ある路線のうち最初に開業したのが京都駅前の塩小路東洞院あたりから伏見区下油掛町付近までを結ぶ約6キロ区間(大正期に市営に)。国内ではじめて電車が営業運転を行った路線といわれます。
伏見街道を歩いていると「伏水街道」と彫られた古い橋の石柱を見かけることがあります。今は地下を通って川が見当たらないところもありますが、古い石柱は残され、往時の街道の雰囲気を感じることができます。
伏見街道沿いには古い京町家が点在しています。その中のひとつである伊東家の主屋は、江戸時代享保年間築の南棟と明治時代前半に建てられた北棟で構成。時代の異なる建物の特徴をそれぞれ維持し、街道に歴史情緒を添えています。
伏見の中でも特に深草エリアは、大日本帝国陸軍第十六師団が置かれたことで軍用地が集中した地域。当時の建物が学校の校舎に転用されたり、師団街道のように通りの名称になったりと当時の歴史が残されています。
日本書紀や万葉集、枕草子など、様々な古い文献に地名が登場する伏見。漢字の表記は「俯見」「臥見」など様々ですが、「伏水」と書かれたのは江戸時代の頃で、役所の名称など公的な場でも使用されました。この名が示すとおり、古くから豊富な水とともに暮らしが営まれてきた伏見。河川だけでなく、地中に浸透した良質な伏流水にも恵まれてきました。現在も各所で名水が育まれ、汲みに来る人の姿も多く見られます。
伏見の伏流水は酒づくりに適した成分を有する中硬水。この水でつくられた伏見の酒は、口当たりまろやかな風味が特徴で、灘の清酒を「男酒」と呼ぶのに対し、「女酒」と呼ばれます。伏見の酒造業は苦難の時代もありましたが、良質な伏流水と近代における交通網の発展とともに大きく飛躍。伝統ある酒蔵の景観は伏見のシンボルにもなっています。
江戸時代に編纂された地誌「山城志」では、「伏見七つ井」として伏見の7つの名水が挙げられています。御香宮神社の「御香水」はそのひとつに数えられるほか、国の名水百選にも選ばれました。
古くから人々が暮らしを営んできた伏見には、個性的な文化や伝統行事が受け継がれています。
古くは土器がつくられていた深草の地で生まれたという伏見人形。全国に90種類以上も存在する土人形ですが、伏見人形の系統をひかないものはないといわれる土人形の元祖です。江戸時代後期には伏見街道沿いに約60軒の窯元があったといわれますが、現在その伝統を受け継ぎ製造しているのは一軒のみです。
伏見人形を中心に3845点に及ぶ「京都の郷土人形コレクション」(国登録有形民俗文化財)が「博物館さがの人形の家」(右京区)で常設展示中!
瓦の一大消費地であるとともに、生産地でもあった京都。焼く前に磨くことで独特な光沢を持つことが京瓦の特徴です。寺や神社の屋根瓦はもちろん、京町家の屋根に飾られる守り神・鍾馗(しょうき)さんも京瓦の技でつくられるもの。現在は建物が建ち並び採取が難しくなりましたが、以前は伏見や東山で材料となる良質な粘土を採取することができました。
平安遷都前から深草の地に建つ藤森神社で、5月1日~5日に行われる藤森祭。最終日には、境内参道を疾走する馬の上で技を披露する駈馬が奉納されます。江戸時代には伏見奉行所の武士や町衆などが参加し競い合っていましたが、明治期に藤森神社の氏子へ引き継がれました。
10月上旬に行われる伏見祭こと御香宮神社の神幸祭。氏子地域を渡御する神輿を先導し、邪気払いを行う重さ60キロ以上の獅子頭を動かすのは、木挽町(旧町名)の青年たちが中心です。木挽町は高瀬川の水運に従事する船頭が集住した地域。当時は高瀬川の水運関係者が担った勇壮な行事でした。
宇治川河川敷に自生するヨシ原は、文化財の屋根に使われたり、野鳥の住処になったりと、古くから地域に息づく天然資源。宇治川のそばにある三栖神社の神幸祭(10月上・中旬)で使う大炬火も、宇治川のヨシを育成し、氏子たちの手で製作されています。伏見の自然を用いた伝統的な祭礼です。
古い時代から、農業や貴族の別荘が営まれるほど自然豊かな土地だった伏見。
そうした地域性と結びついた信仰も、悠久の歴史を刻んで今に息づいています。
今も農業が営まれている深草は、京都盆地の中でも早くから水稲耕作がはじまったとされる歴史深い地域です。その深草で発見された深草遺跡は、弥生時代中期頃の集落跡といわれ、木製農具や日用品、焼けた米など、農耕に関わる道具を中心に当時の生活が窺える遺物が多数発見されています。
推定全長は約120メートル、後円部の高さは約9メートルと京都市内最大級の前方後円墳といわれ、埴輪列や副葬品の円形金具などが発見されました。現在では桓武天皇の第三皇子・伊予親王の墓とされています。
「お稲荷さん」と親しまれる稲荷神社の総本宮。創建は和銅4年(711)二月初午の日と伝承され今日に至っています。平安遷都以前の地誌「山城国風土記」によれば、秦氏の秦伊呂巨(はたのいろこ)が餅を的にして矢を射ると、餅が白い鳥となって山の峰に降り立ち、そこに稲が生えたことから社名の由来になったといいます。
指月伏見城が建てられた指月丘は、観月の名所と称された景勝地。ここに公家の橘俊綱が伏見山荘を営んだ頃から伏見の名が広まり、のちに後白河上皇が伏見殿を造営したことでも知られています。なお、指月という名称は、川、池、盃に映る月と、空に浮かぶ月の合計4つの月を一度に見られることが由来といわれます。
230段という長い石段をのぼった先にある明治天皇陵(墓所)。かつては木幡山伏見城の本丸が建っていたあたりといわれ、参道沿いには、伏見城の石垣に使われていたという石が残されています。なお、伏見桃山陵付近には、明治天皇皇后の伏見桃山東陵や桓武天皇の柏原陵もつくられています。
じつは関係がありました
伏見城の遺構伏見城は江戸幕府ができてしばらくした後に取り壊されたため現存していませんが、城跡周辺の地に建造物の一部や遺構が残されています。
また、伏見区内外問わず、ゆかりある場所にも遺構が現存。
伏見城の面影を各地で感じることができます。
自然豊かな伏見北堀公園は、伏見城の北側にあった外堀の跡につくられた公園です。堀の形を生かしているため、公園が谷のような形になっています。
秀吉が伏見城築城の際に、北東部に鬼門除けの神様として御香宮神社のご祭神を遷した場所です。その後、家康が伏見城を再建した際に、ご祭神を現在の御香宮神社に戻したとされます。現在は御香宮神社の御旅所(おたびしょ)となっています。
没後、東山の阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)に葬られた秀吉を、ご祭神として祀ったことにはじまる神社。細やかな彫刻が施された唐門は、伏見城の遺構といわれます。
境内に入る際、まずくぐることになる惣門。伏見城の薬医門の遺構といわれ、高瀬川や保津川を開削した角倉了以によって移築されたと伝わります。