上賀茂神社
かみがもじんじゃ
(正式:賀茂別雷(かもわけいかづち)神社)
794年の桓武天皇による平安京遷都によって、京都では天皇や貴族を中心に雅な王朝文化が開花していきます。かな文字、和歌、物語、大和絵、寝殿造といった日本ならではの文化が発展し、政治・儀式・暮らしの中で使う調度品や生活道具も、貴族たちの感性と匠の技によって磨かれました。時代は移り変わっても、洗練された王朝文化は人々の憧れとなり、後世に大きな影響を与えていきます。現在の京都の地にも、今なお受け継がれる王朝文化の美意識。それは、まちに息づく建築や行事、暮らしを通じて"発見"することができます。
大陸から伝わった文明と、日本独自の風土や暮らしを礎に、
平安遷都後、貴族社会を中心とした王朝文化が発展しました。
往時の雅な文化は、現存する文化財や祭事などに息づいています。
平安京の北部中央に位置する宮城・平安宮(大内裏)(へいあんきゅう(だいだいり))。その区域内にある天皇の居住空間が「内裏(御所・皇居)」です。内裏は度々火災に見舞われ、その際に仮の皇居とした場所は「里内裏(さとだいり)」と呼ばれました。現在の「京都御所」は、里内裏のひとつがあった場所で、当初の内裏があった位置から東に約2キロ移動しています。御所内に現存する「紫宸殿(ししんでん)」と「清涼殿」は、江戸時代に時代考証を行い、平安時代の建築様式で再建したもの。王朝文化を育んだ宮中の暮らしを彷彿とさせる佇まいの歴史的建造物です。
御所由来の建物を有する、由緒正しき門跡寺院
平安前期、光孝天皇の遺志を受け継いだ宇多天皇により完成された門跡寺院(※1)。御本尊を安置する金堂は、慶長18年(1613)に造営された京都御所の紫宸殿を寛永年間(1624〜44)に移築した建造物です。現存する宸殿(※2)最古の遺構といわれ、国宝に指定されています。
※1 皇族や公家が住職を務めた寺
※2 門跡寺院特有の建物で住職(門跡)が儀式の際に使用する建物
平安初期に造営された嵯峨天皇の離宮にはじまる門跡寺院。
後水尾天皇より下賜されたという宸殿は、仁和寺の金堂と同じく寝殿造(※)。江戸幕府2代将軍秀忠の娘で後水尾天皇の皇后である東福門院和子が使っていた女御御所の宸殿と伝わります。
※平安時代の京都で生まれたとされる建築様式
発掘調査の結果、千本丸太町界わいで平安宮の跡が発見されました。たとえば、国の史跡指定を受けた豊楽(ぶらく)院の正殿・豊楽殿は、元日節会(せちえ)や新嘗祭(にいなめさい)といった国家的な饗宴を行う場所で、出土品は国指定の重要文化財となっています。
明治28年(1895)、平安遷都1100年を記念し、桓武天皇(のちに孝明天皇も合祀)を御祭神として創建された「平安神宮」。社殿は平安京の正庁・朝堂院(応天門は正門・応天門、外拝殿は正殿・大極殿)を模して造営されました。10月の時代祭風俗行列では、王朝時代の風俗も観覧できます。
大陸伝来の文明が、日本の暮らしや風土にあわせ独自に発展した平安時代には、日本初の勅撰(※)和歌集「古今和歌集」がつくられました。紀貫之や紀友則などが選者となって日本の四季や自然、宮廷などを詠んだ歌を収録。平安王朝の美意識が詰まったといえるこの和歌集は、漢字だけでなく「かな文字」が使われている点も特徴です。
※天皇の命により編集された書物
遷都以降、貴族の別荘地として栄えた嵯峨嵐山は、平安期の歌にも多く詠まれた名所。現在の嵐山一帯には、平安後期~鎌倉時代の公家・藤原定家が選出した百人一首(※)の歌碑全100基が歌集ごとにまとめて配置されており、歌碑巡りが楽しめます。
※古今和歌集などの勅撰和歌集から100首を選出。定家の孫を祖とする和歌の家「冷泉家」は平安王朝の和歌や行事の伝統を今に伝えています
平安時代の日本では、一部の人のみ活用できた「漢字」。その漢字を元にした「かな文字」の誕生は、女性をはじめより多くの人が自由に文字を扱えるようになった時代の到来といえるでしょう。清少納言の「枕草子」、紫式部の「源氏物語」、菅原孝標女の「更級日記」など、かな文字を使った文学作品も数多く生み出されます。宮廷が舞台の長編小説「源氏物語」は、のちにつくられる絵巻物とともに、京都のあらゆる文化や工芸品にも影響を与えました。
源氏物語を絵で表した絵巻物のうち、現存する最古の絵巻物は、平安末期の作という国宝「源氏物語絵巻」です。ここに描かれている絵は「やまと絵」と呼ばれます。平安初期頃まで主流とされた中国風の絵を「唐絵」と呼ぶのに対し、日本の風景や風俗を描くのが「やまと絵」です。平安中期には成立したと考えられ、物語の挿絵や貴族住宅の屏風に描かれました。
平安時代に生まれた文学作品の中には、日記も多く含まれます。中でも藤原道長が記した「御堂関白記」は現存する世界最古の日記とされ、国宝だけでなくユネスコ記憶遺産にもなっています。公家・近衛家伝来の資料を保管する「陽明文庫」に所蔵されています。
京の三大祭のひとつ「葵祭」は、上賀茂神社と下鴨神社で行われる5月の例祭。起源は平安京造営前に遡り、遷都後は「祭り」といえば葵祭を指したほど国家的行事として隆盛します。両賀茂社に宮中の未婚女性が仕える斎王の制度も平安時代にスタート。石清水八幡宮の石清水祭、春日大社の春日祭とともに三勅祭(※)のひとつにも数えられます。葵祭の記述が残る平安期の書物も多く、源氏物語に描かれた車争いは有名なエピソードです。 現在も古式に則り、様々な祭儀を執り行う葵祭。15日の「路頭の儀」では、総勢約500名による行列風景が見られ、これが現代に甦った王朝絵巻と例えられています。
※勅祭は天皇の命によって執り行う祭りのこと
ともに世界遺産(文化遺産)の神社。平安京遷都以前に創建され、遷都後は王城鎮護の社となりました。本殿はいずれも流造の建造物で、平安時代の建築様式を今に伝えています。
上賀茂神社
かみがもじんじゃ
(正式:賀茂別雷(かもわけいかづち)神社)
下鴨神社
しもがもじんじゃ
(正式:賀茂御祖(かもみおや)神社)
葵祭の「路頭の儀」では、厳格な時代考証を経て再現された平安期の衣装や道具を使用。当時の様々な身分・役職の風俗が一度に見学できる貴重な機会です。
平安時代、貴族の衣装は唐風の服から日本の風土や暮らしにあわせた日本独自の服装へと変化。女房装束や束帯(そくたい)と呼ばれる衣装もこの時代に誕生しました。また、季節の変化を衣服の配色で表現する「襲(かさね)の色目」も宮中で育まれた文化。色彩に込められた美意識は、京都の伝統工芸品や食文化などにも深く影響していきます。
市内には平安時代の文化を体感できる様々な施設やプランが用意されています。
衣装や遊び道具などの生活文化をはじめ平安時代の暮らしを紹介
模型や人形、調度品など立体的な展示で平安時代の風俗を紹介する博物館
京都では一年を通じて、
平安王朝とゆかりある風俗や祭事を
間近で見学できる機会に恵まれています。
神社での神事や結婚式で見聞きすることも多い「雅楽」は、日本古来の音楽・舞に大陸伝来の音楽や舞踊が融合し、日本独自の変化を果たした宮廷文化のひとつです。平安時代に完成したといわれ、宮中を中心に受け継がれ、明治以降、民間でも継承されるようになりました。
中国からもたらされたと伝わる、勝ち負けを決めない平和な球技。平安時代に儀式化され、宮中で盛んに蹴鞠の会が開かれました。御所の伝統芸能として受け継がれ、現在は有志の保存会が継承。京都市の無形民俗文化財にも登録されています。
中国の風習が元となった宮中行事。庭園の小川(遣水)のそばに複数の歌人が座り、川を流れる酒盃が自分の前を通り過ぎるまでにお題にちなんだ歌を詠みます。平安貴族の邸宅でも私的に行われ、現在は市内の神社を中心に雅な王朝儀式が再現されています。
魚をかがり火でおびき寄せ、鵜を操って捕る伝統漁法。京都市内では遅くとも平安後期には桂川で行われており、「源氏物語」や「平家物語」にも登場します。江戸時代には一度途絶えてしまいましたが、嵐山の大堰川で再興され、平安の世と今を結ぶ夏の風物詩となっています。
車折神社例祭(5月第3日曜)の延長行事。御祭神の清原頼業が平安期の公家であることにちなみ、嵐山の大堰川で平安貴族の船遊びを再現します。船上では、扇流しや今様などの伝統芸能を披露。御祭神と同じ清原一族の清少納言に扮した女性も参加します。
京都には、ほかにも様々な宮中行事が今に伝わっています。たとえば、平安神宮や吉田神社で行われる「追儺式(ついなしき)」(節分行事)、大原・三千院の「御懺法講(おせんぼうこう)」なども宮中で行われていた行事に由来します。
平安時代、天皇の御所や離宮を造営する際に、様々な庭園がつくられました。「京都御所」の紫宸殿南側に広がるのは、南庭と書き「だんてい」と呼び慣わされている公的な庭。ここでは、国家的な儀式が行われていました。また、「大覚寺」の大沢池は、嵯峨天皇の離宮につくられた園池の一部。観月を楽しんだり和歌を詠んだり、雅な王朝文化の舞台となりました。
平安初期の公家・清原夏野の山荘跡にはじまる「法金剛院」には、寺を再興した待賢門院(鳥羽天皇の中宮)が造園させたと伝わり、復元整備された「青女の滝」という貴重な遺構が見られます。
また、貴族の間で浄土信仰が流行した時は、浄土庭園が盛んにつくられました。
安土桃山時代~江戸初期頃は、豪華絢爛な桃山文化と異なる平安貴族の優雅な文化に関心が寄せられるようになりました。「桂離宮」と「修学院離宮」はこの時代に造営された離宮。「桂離宮」は八条宮智仁親王と智忠親王、「修学院離宮」は後水尾上皇が造営。雅な王朝文化の復興を目指し、趣向を凝らした庭をつくりあげました。平安王朝への憧れを持ち、英知を集めて完成した庭園は、世界的に注目されています。
平安末期、貴族の間に深く浸透した浄土信仰。仏教における末法(まっぽう)思想(※1)の影響を受け、人々は死後、阿弥陀如来の住む極楽浄土へ往生したいと願うようになりました。この信仰の流行は、平安末期の仏像や絵画、仏教建築、庭園などに大きな影響を与えることとなります。
貴族たちは、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂を建立したり浄土庭園をつくったり、憧れの極楽浄土を地上で表現するようになりました。当時の浄土信仰から生まれた文化財は、現在も京都各地に保存されています。「法金剛院」の本尊・阿弥陀如来坐像は、平安後期につくられたという定朝様(※2)の仏像。藤原氏の一族にあたる日野家の菩提寺「法界寺」では、平安後期の阿弥陀如来坐像を阿弥陀堂に安置。堂内の壁に描かれた天人の壁画と一体となって極楽浄土の世界が表現されています。
※1 釈迦の入滅後、時が経つにつれて仏教の教えが衰え、世が乱れるという思想
※2 平安時代の仏師・定朝が大成した仏像の彫刻様式で和様ともいいます
大陸から伝来した文化や技術が、日本の風土や暮らしと混ざり合って独自に発展した平安時代。
貴族の需要と審美眼のもと、職人たちの技や感性も磨かれていきました。
現代に受け継がれる手仕事の中には、そんな平安王朝の美が息づいています。
伝統ある手仕事の中には、平安貴族の中で生まれた「襲の色目」の色彩感覚が、伝統的な日本の美意識として反映されることがあります。染織物や工芸品、京菓子など、その彩りにも注目してみましょう。
5世紀頃からはじまった京の織物生産。平安京では織部司という役所が宮中の染織物を管理し、高級織物の製作を奨励。京の職人たちは現在の西陣地域に集住し、貴族の要望に応えながら技を磨きました。これが現代の西陣織へとつながっています。
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江戸時代、扇絵師・宮崎友禅斎によって完成されたという「京友禅」。複数の色使いの絵模様を白生地に染める技術であり、古くから伝わる染色技術の集大成ともいわれます。代表的な絵柄の中には御所車や檜扇など、平安王朝の古典美を表現したものも。
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生地の一部を寄せ集め、糸で括ってから染色する絞り染めは、宮廷衣装にも用いられていました。括ることによって現れる模様が小鹿の体の斑点に似ていることから「鹿の子絞」と呼ばれます。製造は分業制。緻密かつ高度な技法が数多く受け継がれ、優美な和装や小物類などが現在も製作されています。
平安京遷都後、織部司に刺繍の技術を有する職人たちが集められ、優雅な宮廷衣装の製作に従事しました。絹糸、金糸、銀糸などを使い、絹や麻の織物に模様を施す基本的な技法は15種類。時代の流れで人々の装いが変化しても、平安王朝で培われた手仕事は途絶えることなく受け継がれています。
平安貴族の子どもたちが「ひいな遊び」(ままごと遊びのようなもの)をする時に使った「ひいな人形」が起源といわれる「京人形」。製造はパーツごとの分業制で、雛人形、五月人形、御所人形などの種類があります。なお、京都の雛人形における女雛と男雛の位置は、御所のしきたりにちなんだ配置です。
縄文時代にはすでに使われていたという漆器。遷都後も漆器づくりの技術は受け継がれ、宮廷で重宝される中で独自の技法を確立していきます。器の表面に漆で絵模様を描き、金や銀の粉で装飾を施す「蒔絵」は当時の貴族に好まれたといわれ、平安時代に飛躍的に発展したという技法のひとつです。
「京扇子」は平安時代に考案された日本発祥の工芸品。当時、文字の記録に使っていた細長い板を綴りあわせ、桧扇をつくったことが発端となりました。平安時代は仰いで涼をとる目的よりも、宮中の儀式や遊芸の場で使用。次第に絵を施したり透かし彫りにしたり、芸術性も磨かれていきます。
仏教伝来以降、宗教的儀礼や生活の中で活用された香りの文化。平安貴族の間では「薫物」(※)が流行します。貴族たちは自分の好みにあわせて香りを調合。室内や衣服に香りを移して楽しみました。薫物の香りと銘で優劣を決める「薫物合わせ」という遊びも行われ、源氏物語にもそのシーンが登場します。
※粉末にした香木や蜜などを練りあわせた練香をたくこと
有職料理、本膳料理、精進料理、懐石など、様々な料理の系譜が融合した「京料理」。その中の「有職料理」は公家の有職文化(※)から生まれ、宮中の節会で食されたハレの日の料理といえます。京都の生間家が伝承する「生間流式庖丁」は、有職料理における食の儀式・式包丁の流派のひとつ。
※宮中の儀式や祭礼などをしきたりに従って行うこと
雅な色彩で形づくられた意匠、古典文学や和歌を取り入れた菓銘。五感に響く芸術性や文学性を備えた京菓子は、宮廷文化への憧れを背景に、王朝で育まれた美意識と、その後の茶の湯文化の影響を受けて発展しました。また、夏越祓の「水無月」や正月の「はなびら餅」など、宮中行事に由来する菓子も多く存在します。