まちを囲む山々を水源とした鴨川や桂川といった河川、そして豊富な地下水。このような水の恩恵を受けて、京都の人は暮らしを育み、文化を発展させてきました。たとえば、用水技術や治水工事の発達、寺や神社に息づく水への信仰心、庭園や茶の湯など水が欠かせない文化、酒や野菜といった京の伝統食。水なしでは語れない文化や産業が、古代から現代にかけて様々な形で私たちの生活と心を潤しています。そんな水にまつわる京都の文化や歴史を再確認し、水と京都の人々の物語を"発見"しませんか。
1200年以上の歴史をもつ京都のまちで、人々は水とどのように向き合い暮らしを育んだのでしょうか。
都市や農工業の発展、水害との戦い…そんな人と水の歴史をひも解きましょう。
794年、山河が要塞となった城にたとえられ、京の地に遷都された平安京。大小の川が都を流れており、鴨川もそのひとつでした。当時の川は、物資や人を輸送する重要な交通路。鴨川の下流域である桂川との合流地付近には港が置かれ、地方との流通を促しました。その一方、頻繁に氾濫を起こす暴れ川として人々を困らせた鴨川。堤防の新設・修築を担う防鴨河使という官職が置かれたものの、時の権力者・白河法皇は、意の通りにならないものとして「天下三不如意」のひとつに鴨川を挙げています。
また、平安京では人工的な水路をつくり、運河や生活用水に利用していました。たとえば、堀川通の名前の由来ともなった堀川は、堀川小路という通りに沿って人工的に開削された河川です。そして、朱雀大路(現在の千本通)を挟み、堀川と対照的な位置につくられたのが「西堀川」(現在の紙屋川)。これらは主に平安京の造営に必要な材木を運ぶためにつくられ、両河川の間には平安京の宮城・大内裏がつくられています。現在の堀川は大部分が暗渠化(地中の下に隠れている状態)。今出川通から御池通の間に遊歩道が整備され、地域の人に親しまれています。
このように京都の河川は、平安京遷都の決め手のひとつであり、遷都後も都の都市生活を支える重要な基盤だったといえます。
安土桃山時代、秀吉は洛中を取り囲む延長約22.5kmの「御土居」を造築しました。
川の氾濫からまちを守る堤防とも、外敵の侵入を防ぐ防塁とも考えられています。秀吉は寺町の形成や地割の変更を行ったほか、伏見城築城にともない、水運整備と洪水被害の防御を目的に巨椋池や宇治川周辺の整備にも着手。
現代における京都のまち並みは、この時代に礎が築かれたといえるでしょう。
京都嵯峨生まれの角倉了以とその子・素庵。海外貿易で財をなした豪商で、治水工事にもその手腕を発揮します。まずは丹後の木材や食物を運ぶべく、船が行き来できるように保津川を開削。さらには人工河川として方広寺大仏再建の資材を運搬するために高瀬川を開削。高瀬川は京都・伏見間の物資輸送路として活用されました。こうした運河は、京都の様々な文化・産業の発展に大きく貢献しました。
明治時代、産業の近代化を図るため、琵琶湖の水を京都に引き込む「琵琶湖疏水」が建設されました。疏水の水は、電力を生み、舟運を開き、防火用水に活用されるなど、様々なかたちで京都のまちを発展させます。明治30年代には、市民の飲料水確保のために水道事業が要望され、明治45年4月には、琵琶湖疏水より取水した「蹴上浄水場」から京都市初の給水をスタート。浄水方式は当時日本初の「急速ろ過」を採用しました。昭和に入ると松ケ崎と新山科の浄水場も稼働。数多くの水質検査を実施し、おいしくて安全な水道水を届けています。ほかにも琵琶湖疏水は、農地に水を引くための灌漑用水や、水車を使った精米などにも活用されました。今でも疏水から取水される用水路は、山科や伏見にある農地を潤しています。
京都遺産「明治の近代化への歩み」もCheck!
平安時代、「暴れ川」と呼ばれた鴨川の洪水問題は、昭和に入ってからも京都市の抱える大きな課題でした。たとえば、昭和10年に起きた豪雨では、桂川や鴨川が氾濫し、鴨川に架かる9割の橋が流出したり死傷者が出たりするほどの被害が発生。その後、抜本的な河川改修を計画的に実施し、現在の鴨川に近い姿へとつくり変えます。以降、かつてほどの被害は避けられているものの、近年、想定を超える豪雨が多発していることから、さらなる対策を進めています。そのひとつが雨水幹線。雨が降っている間、雨水を地下に溜めておける地下トンネルを市内各所で建設中です。ほかにも雨水ポンプ場や雨水調整池などを整備し、浸水被害の最小化を図っています。
京都には、はるか昔から自然のまま息づく水辺も、
暮らしのそばで大切に残されています。
氷河期の水生植物をはじめ、貴重な生物が生息することから「深泥池生物群集」として天然記念物に指定。地元住民や研究者による保全活動も行われています。
カキツバタが自生する野生群落地として平安期から知られ、国の天然記念物に指定。平安時代の公家で歌人・藤原俊成の詠んだ歌も有名です。
5世紀後半、豪族・秦氏によって農業がはじまったという洛西エリア。嵐山の渡月橋上流から取水し、農業や雨水の排水路に活用される「洛西用水」は、秦氏が設置した灌漑用水が起源と伝わります。嵯峨の「広沢池」も秦氏築造説がある灌漑用ため池です。
江戸末期の開削という沢の池は農業用のため池で、昭和半ば頃まで地下水路から水を送り、丸太町通付近の田畑で活用されました。戦後は農業の生産向上を図るため原谷に農業用水などがつくられました。
京都の伝統文化や工芸品。
これらが今日まで発展してきた背景にも、水が影響しています。
約300年前に宮崎友禅斎が確立した技法で、京都が誇る伝統産業製品のひとつ「京友禅」。以前は鴨川や桂川など様々な河川で糊を落とすために反物を洗う「友禅流し」(※)が行われていました。その当時は豊富な水量の河川が必要だったためか、染物業者は堀川など川の近くで多く営まれています。また、糸で図柄を描き出す「西陣織」では、糸の染色に地下水を活用してきました。このように染めに適した京都の水が、染物業の飛躍を支えたといえるでしょう。
※水質汚濁防止法施行にともなって中止
園池・園路・滝・瀬落ち・沢飛び石など、庭園には数多くの水に関する要素があります。近代になって築造された邸宅が数多く所在する岡崎・南禅寺界わいでは、琵琶湖疏水の豊富な水量を活かした庭園づくりが行われました。
京都遺産「山紫水明の千年の都で育まれた庭園文化」もCheck!
公家や武家、寺院などで育まれた食文化の影響を受けながら、時代の流れとともに発展した「京料理」。そのベースとなるダシには、まろやかな京の水が欠かせません。また、食材となる川魚のほか京野菜や豆腐などにも水は活かされています。
寒暖差の大きな気候と良質な水、肥沃な土壌といった自然環境に恵まれ育った京野菜。懐石や精進料理の発展とともに鮮度の良い野菜の需要が高まり、生産者の創意工夫もあって、京野菜は現代に続く伝統野菜となりました。
京野菜とともに発展してきた伝統食品。中でも千枚漬・すぐき・しば漬は京の三大漬物と呼ばれ、古くから京の食卓で親しまれています。
豆腐をはじめ、湯葉や生麩の製造には、水が命といえるほど重要です。京都には、その味の決め手となる水に恵まれたことで、市内各地に製造業者が点在。また、夏でも冷涼な地下水が食材保存に活用できたことも、冷蔵庫のない時代から生産が盛んだった理由のひとつです。
伏見の酒づくりは、弥生時代、稲作が伝来した頃にはじまったとされています。かつて伏見を「伏水」と書いたほど良質な伏流水に恵まれ、その豊かな水が伏見の酒づくりを支えてきました。伏見の酒は江戸時代の伏見港開港、明治時代の鉄道開通など、交通網の発展とともに全国に知れ渡りました。また、京都市内には伏見以外にも多数の酒蔵があります。
川の上に桟敷を設けて料理を楽しむ川床や納涼床。たとえば鴨川の納涼床は、豊臣秀吉の時代にはじまって以降、琵琶湖疏水・鴨川運河の開通や治水工事といった鴨川の変遷とともに姿形を変えながら今に息づいています。京の奥座敷・貴船の川床は大正時代、川に足を浸しお茶を楽しむ場所としてスタート。高雄の川床は、避暑地・清滝川沿いで楽しめます。
日本にお茶がもたらされて以降、京都で良質な茶の生産が盛んとなり、村田珠光や千利休など名だたる茶人も京都で活躍。安土桃山時代には秀吉が「北野大茶湯」を催すなど隆盛を極めます。江戸時代には煎茶も普及し、茶に欠かせない水も大切にされてきました。そういった歴史の中で京都独自の茶文化は発展し、暮らしに定着していきます。
小豆や栗といった原材料の産地とともに良質な水に恵まれ、宮中文化や公家文化など多彩な文化の中で磨かれ発展したのが「京菓子」です。もてなしや季節感を重んじる茶の湯文化の中では、その芸術性を高めました。
観桜茶会 | 4月9日 表千家家元 |
---|---|
市民煎茶の会 | 5月3~5日 各日2流派ずつ(瑞芳菴流家元・賣茶本流家元・玉川遠州流家元・小川流家元・泰山流家元・皇風煎茶禮式宗家) |
市民大茶会 | 10月下旬 裏千家家元 11月1日 表千家家元 11月3日 藪内家家元 |
京都三名水のひとつ。かつては宮中の染所で、染色用の水に使われたといういわれもあります。
千利休が掘ったという太閤井戸、手水舎に使う梅香水など、数多くの井戸が現存。
夏でも冷たい水が湧き、冷蔵庫がない時代の錦市場で活用されていました。
酒造関係者の信仰を集めてきた名水。この水を混ぜると酒がおいしくなるとも伝わります。
平安時代、病気に効果のある良い香りの水が湧き出たことに由来する名水。
「京都三名水」「茶の湯七名水」というように、京都に数ある名水は、時に分類されて紹介されることがあります。たとえば「都七名水」と呼ばれる7つの名水は次のような構成です。
中川井 | かつて寺町二条の妙満寺に湧き、寺の移転の際に石碑も移設 |
---|---|
滋野井 | 平安初期に由緒を持つ名水で今は「生き方探究館」で井桁を保存 |
音羽の瀧 | 詳しくはこちら |
左女牛井 | 平安期、源氏の邸宅内にあった井戸で今は石碑が残る |
古醒井 | 西本願寺境内の庭園・滴翠園(通常非公開)にある |
芹根水 | かつて堀川沿いに湧き、文人・茶人に愛され今は石碑が残る |
六孫王誕生水 | 六孫王神社境内末社・誕生水弁財天社の地に残る |
※都七名水の構成は諸説あります 参考文献 井上頼寿 『京都民俗誌』平凡社 ,1968
恵みをもたらすと同時に災厄の引き金ともなる「水」は、
古来より人々の信仰の対象でもありました。
水にまつわる信仰は、今も暮らしに息づいています。
平安京建都の際に造営された天皇専用の 庭園(禁苑)である「神泉苑」。湧水によ る園池があり、かつては宮廷儀式や宴遊が 行われました。また、弘法大師による雨 乞いの儀式では善女龍王という神様を迎 え、池のほとりの社に今も祀られています。
大原三千院の背後にある小野山。その中腹に流れる滝が「音無の滝」です。滝の名は、平安時代の僧侶・聖応大師が声明(仏教音楽)の練習を重ねるにつれて滝の音と声明の声が調和し、ついに滝の水音が消えてしまったという伝説に由来しています。
鴨川の水源地のひとつである洛北・貴船。万物のエネルギーが生まれる根源地を意味し、古くから「氣生根」とも記されます。その地に鎮座する「貴船神社」は、水の神様を祀る古社。祈雨・止雨の祈祷所であり、水と関わる生業の人々の信仰も集めています。
780年に創建された「清水寺」。寺を開創するきっかけであり、名前の由来ともなったのが境内に流れる「音羽の瀧」です。寺が建つ音羽山の水が伏流水となって湧き出た水で、「金色水」「延命水」とも呼ばれます。参拝者は長い柄杓で水を汲んで祈願。
嵐山の北西に位置する清滝エリア。愛宕山の登山口に集落があり、山へ入る前に身を清めたという清滝川が流れます。山中にも様々な信仰が息づき、「空也の滝」もそのひとつ。高さ約12mの滝で、平安時代中期の僧・空也上人の修行地といわれます。
神社や寺に置かれている「手水舎」。参拝前に水で手や口を洗い、身を清める禊の場所です。