京都のまちの成立から考えますと、今から1200年前、京都は都になり平安京が置かれました。ただ平安京の内部の西側半分は、極端な言い方をすると、1200年前から、ごく最近の高度経済成長が始まるまではほとんど農地でした。
400年前、豊臣秀吉は当時の京都のまちを囲うように御土居を築きましたが、その当時の京都のまちと、明治頃の京都のまちのかたちはそう変わっていません。つまり秀吉時代の京都が、ほぼそのまま後の京都のまちになっていったのです。
「京都の原点」を考えるとき、1200年前の平安京を誰しも挙げるでしょう。しかし、平安京は現在の京都の「まち」の原点ではないのです。人がそこで生まれ暮らし死んでいく、我々が普通に想像するまちとしての京都の起源は、平安京のできた1200年前ではないといえます。
自分がつくり自分が住む、そういうまちができたのは、今から1200年前の平安京の時代より、かなり後であることを見逃してはならないでしょう。
平安京の範囲と明治期の京都市街地の展開
大日本帝國陸地測量部では一体、後の時代―秀吉の時代や明治の時代―に続く京都のまちは、いつ形づくられたのでしょうか。それを読み解くカギは、平安時代の文化人である慶滋保胤(よししげのやすたね)が982年に著した随想『池亭記(ちていき)』に見つけ出せます。彼はここでは三点を指摘しています。
一点目、「西ノ京は人家ようやく稀にしてほとほと幽居に近し」と書かれています。この「西ノ京」は現在の地名としての西ノ京ではなく、つまり平安京の西側半分のことを西京と呼びますが、そこにはほとんど人が住まないようになっているというのです。
平安京が置かれた当時、国家や朝廷は平安京全体すべてを都市として計画し造成しましたが、現実にはその200年後の980年頃においても、西側半分は人が住まない状況だったのです。
二点目ですが、平安京の東側半分の、それも四条通以北については、「ひとびと貴賎となく」、身分の高い人も低い人も、たくさん集まり住んでいると書かれていまして、西側半分が衰退していく中で、東側半分は反対に人口が集中している状況が見て取れます。
三点目、「東河のほとりを占いて」との記述があって、当時の人々は生活の多くを占いに委ねていましたが、住居を構える際にそこが良い場所かどうかと神の意志に問い、鴨川のすぐそばに住み着くようになりました。鴨川は氾濫しやすい川として知られていましたが、そんな所に住もうものなら、洪水によりたちまち魚や亀と仲間として泳ぐことになってしまうではないかと非難しています。さらにまた、平安京北側に広がる野、「北野」に人々が住むようになり、夏季に日照りが続くと井戸が干上がり水に困るのだから、なぜそんな所に住もうとするのかも言っています。
彼にはつまり、洪水や日照りで困るにも関わらず、では何故人はそこに住むのかについての眼差しを持っていません。
平安京の西側半分が衰退し、東側半分の北側に人家が集中し、さらに平安京を越えて北側にも市街地が延びていっている状況を述べているのです。国家や朝廷の目指した、平安京全体がまちであるという当初の計画は、その200年後にはがらりと変わってしまっていることがいえるのではないでしょうか。そしてそのまちの姿は、明治の時代まで続くまちの原点になっています。
すなわち、人がそこで生まれ暮らし死んでいく、市民たちによってつくられた京都のまちは、実は今から1200年前ではなく、1000年ほど前の980年頃に成立したのです。
「餓鬼草紙」(出展:東京国立博物館)
以上から北野地域は、今から1000年ほど前、900年代の後半頃に人が集中的に住み始めた、ということが分かるかと思います。では、市民が住みたいまち、暮らしたいまちに暮らすと、いったいどういうまちが形成されるのでしょうか。『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』から読み解いてみましょう。
清徳という僧侶がいました。ある時母が亡くなり、棺に入れて、愛宕山に持って行きます。成仏を祈ってお経を唱え続けると、夢の中に母が出て「もういい、成仏したよ」と言いました。そこで彼は「西ノ京」を通って京都のまちへ戻ります。道中にナギ(ミズアオイ)がたくさん生えていて、空腹だったものだから全部食べてしまいます。
その噂が、当時の政権の最高権力者の耳に届いて、米10石を炊いて出しますが、清徳が愛宕山で3年いる間についた、餓鬼畜生虎狼犬馬数万の鳥獣とともに、それも全部食べてしまうのです。そして、清徳一行は四条大路の北側の通りに来たとき排便しますが、そこからその通りは「くその小路」と名付けられたといいます。その話が天皇の耳に伝わり、いくらなんでも汚いという理由で、現在の綾小路通ですが、四条の一つ南は綾だから一つ北は錦にしろと言います。
この説話が何を物語るかというと、人が住みたいまちに住み、暮らしたいまちに暮らす、そうすると当然人口がそこに集中する。もちろん、共同便所のスペースもあって、どこで排便をしても良いという訳でなく、一定の場所が共同便所スペースにするというかたちで、人々は人口が集中することによって生じるマイナス要素を解消してきたということなのです。
「餓鬼草紙」(出展:東京国立博物館)
また、1000年ほど前は、死体は埋葬するケースもありますが基本捨てます。
994年、この年疫病が流行します。流行すると当然病人が出ますが、病人も死期が近付くと、捨てられます。いったん疫病が流行しようものなら、京都のまちの道や溝にはたくさんの死体が捨てられ、その死体は当然腐敗して悪臭を放ったことでしょう。
人口が集中することによる問題点とともに、人はしたたかに力強く生きていきます。今から1000年程、住みたいまちに住み、暮らしたいまちに暮らす、市民がつくるまち、というものが出来てきたときに北野はその一つの代表地になりました。つまり、北野はそういう意味で京都のまちの成立、というものを考えるとき、大変重要な土地と言えます。たしかに日照りが続けば飲み水に困るかも知れませんが、暮らすには便利な土地柄だったということです。
最近は応仁・文明の乱ということが多いですが、乱は京都のまちに対してどういう影響作用を及ぼしたのでしょうか。
応仁・文明の乱は合計11年間、1467年から77年まで続き、京都のまちは殆ど焼けてしまいました。まちが炎上してしまう中で、郊外のいろいろな寺院や神社も被害を受けます。
なぜこのような大きな被害を受けるかというと、応仁の乱から後の戦争というものが、集団戦というかたちをとっていたからです。応仁の乱以前の源平の合戦などは1対1くらいで戦うのが基本の戦闘形態ですが、応仁の乱の頃から集団戦が戦闘の形態になっていきます。
集団戦の“主役”は、足軽です。応仁・文明の乱から戦国の争乱の時代の足軽は一種の傭兵でして、金目当てで戦争に参加します。そして、彼らの大半は京都の出身ではありませんから、そういう足軽は京都のまちを戦場にすると、ひたすら略奪にあけくれます。ただ自分の利益のために参加をしているので、負けると思うとすぐ退く。主君のために最後まで命を捧げるような思想もありませんし、すぐ退くことで兵力が温存されることになります。
そしてまた次の戦いに参加することができる構造をとっていることから、応仁の乱は11年間も続き、その後の戦国争乱とによって京都のまちは徹底的な破壊に晒されることになりました。
ではそういったなかで、京都の市民はどうするか。自分で自分を守る、自力救済しかないのです。自分の力でもって自分を守り、自分を救う、自分を保つ、そういう意識といったものが強く京都に生まれてくるのが、実は応仁・文明の乱から戦国の争乱にかけてのことです。
市民達が自治意識、連合意識といったものを持ち、自分達で京都のまちを守り、作り、維持していく。そういう意識が生まれていったのは、応仁・文明の乱であり、その後の日本の歴史の展開にとって、たいへん重要な役割を果たしました。
応仁・文明の乱の頃は、日本のその後の歴史の展開の原点、出発点なのです。応仁・文明の乱以降の歴史を知っていたら、古代の歴史を研究する必要は殆どないとまで、東洋史の学者内藤虎次郎は述べているほど大切な出来事でした。
祇園祭は平安時代から始まっています。ですが今に続く祇園祭の出発点は、応仁・文明、戦国の後に始まったものです。また、能、狂言や歌舞伎、茶道や華道も奈良・平安時代からありますが、洗練されたひとつのかたち、芸能、芸術文化として成立するのは応仁・文明から戦国の後です。
それは何故なのでしょうか。
混乱の中で、戦乱の中で、動乱の中で、人々は自らの力で自らを守り、自らをつくる、そういう意識を重要な背景というか基盤として、能、狂言や歌舞伎、茶道や華道が生まれたという風に考えるのが、一番当たっているのではないかと私は考えています。まち・ひと・こころ、京都に存在するすべての生き生きとしたつながりが、新たな文化を生み出したのです。